僕はトレイルランナーとして、アスリートとして世界中のレースを走り
トレイルランニングを日本に広め
多くの人々にこのスポーツを楽しんでもうらう為の活動をしています。
この東日本大震災が起きてしまった日本で
スポーツ選手としての立場から自分にできることは
少しでも被災地を、日本を元気にさせるために
トレイルランニングに関わるアクションを起こすのが自分の役目だと思っています。
しかし、震災直後の今、僕のできることは
「動ける」という環境、立場から被災地でこの今、急を要されていることに対し
自分ができることをしなければならないと考え、行動に至りました。
先週の金曜日18日から、Challenge to Change Japanの活動にて支援物資を被災地へ運んでいました。
日本財団とPEACEBOATに集められた支援物資を
4トントラック1台とキャラバン1台で被災地へ向かいました。
当初、宮城県名取市へと向かう予定でしたが
同県石巻市の方からSOSが出ているという受け入れ先から
情報が入り石巻市へと車を走らせました。
<日本財団に集められた支援物資>
<沢山の支援先から集まったもの>
<手分けして4tトラックに積み込み>
<すぐに隙間もなく満載に>
日本財団に集めらた支援物資の1回目の運搬となり
水、食糧、常備薬、マスク、生理用品、トイレットペーパーなどか中心に
多くの日本財団の方々が運び込み、4トントラックがすぐに満載となりました。
<トラックばかりがひた進む東北道>
現在、緊急車両の通行のみとなっている東北道をひた走り、9時に虎ノ門を出て休憩なしで朝の3時に石巻市に到着しました。
震災の跡は、高速道路にも影響を与えていて、道路は至る所ぼこぼこでした。それでも電車、飛行機が動けない状況であった中、この道がなければという状況にあったと思い、すぐに応急の整備をしたという様子でした。ところどころ停電もあり、街灯も全くない部分も通過し、道路は物資を運ぶ大型トラックが被災地へと本当に多く走っていました。そのトラックの達の後ろ姿は、どこか被災地へ向けて、「待ってろよ、今運んでいるからな!」とでもいうような、もちろんまだ余震もおさまらず、原発問題もあり、このドライバーの多くが命がけであったと思います。そんな雰囲気漂う深夜の高速道路でした。
<ここでおろした大量の水やトイレットペーパーなどは昼には残っていませんでした>
石巻市総合運動公園が現地の災害本部となっていて
朝、2日前から現地入りして活動をされているPEACEBOATの方々と合流し、荷物の受け渡しと4トントラックの支援物資を災害本部へおろしました。そして、再度、物資をそれぞれ積み込んで、本部より先の避難所等々へ運ぶ準備をしました。
<運転してきたキャラバンと>
<PEACEBOATのトラックに>
<石巻ボランティアセンター、外の受け付けは、この時まだ準備中>
石巻市ボランティアセンターへと向かい、情報収集、現状把握を行い、
二手に分かれて動き出しました。
<被災地の情報収集・・まだここでも体制が整っていない状況でPEACEBOATの方々は迅速かつ的確に動きます>
<避難所の位置確認>
<石巻地区の公の避難所だけでもこれだけの数があります>
僕らは、被害が大きく、当時まだ情報があまりこちらに届いていなかった女川町へと向かいました。
向かう途中で、被災地の現状が目に飛び込んできました。
<海からはまだ離れている街の中>
僕は、これまで、トレイルランナーとして
自然やスポーツ、人々に関わる、楽しみや魅力を伝えてまいりました。
今回起きてしまったような災害の事実を言葉で伝えたことがありません。
見たもの、感じたことをこの先、言葉にしてお伝えしますが
不適切な内容、人によっては失礼であり、無神経であると感じられることがありましたら
大変申し訳ございません。僕は18日から被災地で見たことの事実を伝え、これを読んでいただいた皆様に被災者ではない人間が感じたこと、現場の事実と私たちが考えなければならない多くのことを伝えたいと思い、記させていただきます。
昨晩は、電気もなく真っ暗闇の中、到着したので周囲がどのような状況だったのか道路わきに見える景色でしか確認できていませんでした。
ニュースやネットで流れる状況は把握していたつもりでしたが
これほどまでに、これほどまでに災害が
大きく、広く、深く、残酷に起きていることを目のあたりにし、言葉を失いました。
これが地球で起きたことなのか、これまで自分と同じ日本人が生活していた日本なのかと目を疑いたくなる光景を目にすることとなりました。
<まだ海は見えていな場所なのに>
石巻からの道路は、多くの自衛隊、消防などの救援隊のおかげで主要な道路を車が通れるようになっていますが(必要最低限に)、その沿道は以前、人々が生活をしていた場所ではなくなってしまっていました。
海から、運河から流れた大量のヘドロが道を覆い、異臭を漂わせていました。
かろうじて流されずに残った家では、多くの方々が様々な作業をされていました。生き残られた方々は、被災直後にも関わらず、本当に頑張っています。ライフラインが閉ざされてる中でも。スーパーや服の量販店、工場などの比較的大きな建物でかろうじて立っていられるのはそれが何の建物だったのか分からないほど破壊され、車やあらゆるものが流し込まれ、、天井はいつ落ちてもおかしくない状態でした。立っているのが奇跡的な状態の建物も多く、高い建物は場所によって3階以上までの窓がぶち破られ、波が押し寄せ、すべてを飲み込み、中のものを消し去ってしまっていました。車は、何の手によってあらゆるところに運ばれ、積み重なり、これほどまでに破壊されてしまったのか、これらすべてが昭和後期に生まれ、大きな震災というも体験していない自分にはすべてが全く理解できない状況でした。ただただ、地震がもたらした津波の大きさは計り知れないものだったのだ、恐ろしいものだったのだと目で見たものを受け入れることしかできませんでした。被災地にいなかった僕らには、想像も理解もできるはずがありませんでした。
しかしこの時目にしたものは、この震災の大きさ、恐ろしさのごく一部にしか過ぎませんでした。
さらに石巻中心部から南東の女川町へと進みました。道路は小さな丘を越え、緩やかなカーブをいくつも曲がり下り、そして視界の先に見えてきたものに車に乗った私たちは、目を疑い、これまで以上に言葉を失いました。
町が街が無いのです、道の先に広がる広い景色には何もないのです。遠い道の先に海が見えますがそこまでの間に、建物すべてが跡形もなくなって無いのです。僕らはまだ坂道を下りてきた途中で、坂道はまだその先につづいています、海から見ればまだ高台です。そこからもう建物が何も無いのです。本当に理解ができませんでした。そして僕ら誰も言葉を発することはできず、涙が止まりませんでした。
道を歩く人々はこの土地の方々かもしれませんが、その方たちにこの涙を見せまいと必死でした。
<原形をとどめないまでに破壊し続けた津波>
車を降り、その谷へと向かいました。もう何もありません。家の立っていた跡形もありません。遠くの港にある建物が、かろうじて横たわっている数件が見えるだけです。地面には建物、家財、車あらゆるものをなぎ倒し、破壊し、粉々にしたその一部がひろがっているという状態でした。そのほかにあったものはすべて、退いた波が海に持ち去ったのでしょうか。この押し寄せた巨大な波は、破壊しただけでなく、すべてを持ち去ってしまいました。僕らが降りたところはまだ谷の中腹でしたが、この被害はまださらに上へとつづいています。1キロ以上離れた場所のにかろうじて立つ建物の3階部分もすべて破壊されています。その建物の下に自分が立てばその高さは高く見上げる高さです。横に見える山肌はえぐられ、高さのあるコンクリートの壁には、破壊を起こした際の傷跡がなまなましく残っていました。
いくつもの2,3階建てのコンクリートの大きな建物が、基礎ごとなぎ倒され、横たわり、列車はクの字に曲がり、一輌は丘の上に打ち上げられていました。地震が起こした波、ここへ押し寄せた波の規模がどれほどのものだったのか、その場にいても
想像ができませんでした。ただ残されたものを見てこの破壊力がどれだけのものだったのかを現実として受け入れるのがやっとでした。
<こんなことが起こるものなのでしょうか・・>
<これほどまでの波の力とは、恐ろしさとは・・>
<大切な自然かもしれませんが、この時は自然の力が憎いとしか考えられませんでした>
<これほどの波を誰が予想できたでしょうか・・>
<これほどまでに被害をもたらした恐ろしい大津波は・・・>
<この穏やかな、湾の外から高い
壁となって、猛威となって襲ってきたのです>
この町にいらした方々の恐怖、苦しさ、悔しさ、もっともっとたくさんのことを考えることはできませんでした。この被害をもたらした津波は想像がつきませんから。ただだたひとりでも多くの方々に助かっていてもらいたい、生きていてもらいたい、この場に居なかったことと、願うばかりでした。
<海から数キロ離れているここでさえ・・波は正面の谷間の下からやってきました>
この現状を見て、あらゆることを考えしばらくその場を動けずにいたのですがやらなければならないことが私たちにはあると女川町の災害本部へ車を走らせました。この日は天気も良く避難所の外では多くの避難されている方々がおられ、救援駆けつけた方々からの炊き出しが行われておりました。
<女川町>
<災害本部横の避難所では温かい食べ物の炊き出しが行われていました。
しかし、こういった大きな避難所だから見られる光景だと思います>
<この日あたりから大きなトラックが入り、届き始めた支援物資。自衛隊の方々が次々と運び出していました>
持参した物資を本部におろし、こちらでの状況を災害本部の方にお聞きしました。被災から1週間経ちましたが、当然ながら、あらゆるライフラインは復旧しておらず(19日現在)、自衛隊などが入り、テレビが見れて、この状況を広く画像として確認できたと話しておりました。
物資は、ここ数日から入り始めている状況にあるようでしたが、あくまでも本部であって、避難されている末端までは運んでいる途中であって、無数に散らばる避難所もすべて把握できていないのが現状とのことでした。
この日、もうひとつPEACEBOATの班が辿りついた病院では400名の人々が避難しているのにも関わらず、食事はもう一食分しかないという状況でした。連絡手段が無い、避難所末端の人々が動けないという状況ですからこういった現状は、氷山の一角にしか過ぎないのだと思いました。避難所は公に作られていますが、そこまで来れない人々も多く、そういったところまでは本部は知ることができません。この経路をつなぐことが急を要する部分だと思いました。
女川町でも私たちが持ち込んだ物資がすぐに、そこから持ち出されていました。必要されていたものを迅速に届けることができて良かったと思うう半面、この量しか持ってこれなかったことに申し訳ない思いで一杯でした。被災者の規模を考えると、私たちがこの日に持ち込んだものはごくごくわずかなものでしかありませんが、それが被災地にとって一瞬ではありますが一つの灯りとなっていただけたらとこの時は思いました。
<離乳食は狭い一角にこれしかありませんでした>
この時点ではどんなものもすべて少ないのですが、やはり消耗の早い、おむつや生理用品、お尻拭き、離乳食、下着、などはかなり足りない状況のようでした。
<室内には入れず、廊下にいる方々もいます、寒く、プライバシーもありません>
避難者にとって必要なものは、一度にはあげられません。
とにかく、この現状を見る限り、自分の身、家族の身、生き残った方々は
命以外のものすべてを失ったという方々が多いのです。
失ったとは、当然誤りがあります。生きる希望は失っていません。避難所では時に笑いもあります。時に子供たちが走り回っていたりもします。
しかしこの被害、そして現実に抱えるストレスは計り知れないものです。
私たちには分かるはずがありません。しかしそれを理解しようとして
応援、支援しているのだと思います。
<次に襲う被害・・・街中に溜まったヘドロが乾いて粉ぼこりとして舞いだします、町全体が真っ白に>
これほどまでに被害を受けた被災地ではあらゆる支援が必要です。
東北沿岸部の津波の被害を受けた地域では、街が消失してしまっています。何も買うことも、動くこともできない人々が多いのです。
原発で避難させられた方々も含め
着の身着のままで避難所に来られた方々は、生活する、生きるすべてのものが必要です。この支援は長期を要します。行動と気持ちの支援を多くの人々にし続けていただきたいと思います。
<送る側も当然真剣です、健康管理や燃料の問題・・>
被災を受けなかった僕らは、停電が部分的に起こり、今までの暮らしに比べたら不便な思いをしているのは事実です。モノの流通もこれまでとは少し違い、不安に感じているかたも多いと思います。そんな中だからこそ、日本に住む多くの人々が心を一つに、力をあわせて、早い被災地の復興を、みんなが元気な日本を目指して頑張ろうではありませんか。
今何ができるのか、何をしなければならないのか、真剣に冷静に考えていきましょう。
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石川弘樹 Hiroki ISHIKAWA
幼少よりサッカーを始め、高校ではインターハイを経験する。大学在学中に世界最高峰アドベンチャーレース “Raid Gauloises”(レイドゴロワーズ)を知り、自分に何か奮い立たせるものを感じ、挑戦を決意する。
1999年からアスリートとしての道を選び、世界中の難関レースに挑戦。2001年よりトレイルランナーとして北米を中心に活動し国内をはじめ、海外へのレース、遠征を続けている。アメリカにてThe Rocky Mountain Slam及びGland Slam of Ultra Runningを日本人初獲得。シリーズ戦なども初。02,03年日本山岳耐久レース2連覇。2010年は主にスイスをメインとしたヨーロッパでのレースを中心に活動。日本国内でのトレイルランニング普及活動の一環としてのレースプロデュースは北は仙台、南は北九州まで5大会に及ぶ。今年の国内普及イベント、セミナー等はよりコアにローカルなトレイルにて全国をまわる。趣味は波乗り、レースの合間、冬場を中心に鎌倉の海に入水。そして音楽鑑賞、大学時代にはまったレゲエのレコード収集は今も健在。鎌倉に住み、自宅付近はトレイルのジャンクションになっていてあらゆる方向に走りだせる環境でトレーニング及び様々な活動、生活を行っている。
(株)TRAIL WORKS 代表
2008年11月までのブログはこちら
幼少よりサッカーを始め、高校ではインターハイを経験する。大学在学中に世界最高峰アドベンチャーレース “Raid Gauloises”(レイドゴロワーズ)を知り、自分に何か奮い立たせるものを感じ、挑戦を決意する。
1999年からアスリートとしての道を選び、世界中の難関レースに挑戦。2001年よりトレイルランナーとして北米を中心に活動し国内をはじめ、海外へのレース、遠征を続けている。アメリカにてThe Rocky Mountain Slam及びGland Slam of Ultra Runningを日本人初獲得。シリーズ戦なども初。02,03年日本山岳耐久レース2連覇。2010年は主にスイスをメインとしたヨーロッパでのレースを中心に活動。日本国内でのトレイルランニング普及活動の一環としてのレースプロデュースは北は仙台、南は北九州まで5大会に及ぶ。今年の国内普及イベント、セミナー等はよりコアにローカルなトレイルにて全国をまわる。趣味は波乗り、レースの合間、冬場を中心に鎌倉の海に入水。そして音楽鑑賞、大学時代にはまったレゲエのレコード収集は今も健在。鎌倉に住み、自宅付近はトレイルのジャンクションになっていてあらゆる方向に走りだせる環境でトレーニング及び様々な活動、生活を行っている。
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